占星術を万民に手の届くものにしたのは古代ギリシャ人である。それは、彼らの民主主義思想の現われであった。天宮図はもはや、王者が独占する利器ではなくなった。金を払いさえすれば、唯でも占いをしてもらうことができるようになったのである。
ギリシャ人は、占星術を万能とは考えていなかったみたい。だから占星術は、人生や生活を決めるものではなく、教えてくれるものだとしたのである。
つまり、ギリシャ人は、占星術の予言も人間の生活を支配するものではなく、単に示唆を与えるに過ぎないとした。
たとえば、何かの計画を実行するのに都合のいい日和を教えはするが、結果がかならず成功するとは保証しないものだとした。ギリシャ人のこの方式から生まれたカターキック・アストロジーと呼ばれる占星術は、のちの神学者や哲学者との間のいさかいの回避策の一つであった。つまりいいわけができるのである。「当たらなくたってしかたないじゃん。星占いは万能じゃないんだから」と、言い訳できるスキが出来てしまったわけ。
紀元前150年ごろヒッパルコスが黄道十二宮を定めたときには、春分点(地球の赤道と黄道が交差する点)が牡羊座にあって、星座の牡羊座と12宮の白羊宮とは一致していた。ところが、地球は歳差運動といって、コマの首振り運動のような動きをしているため、春分点が一年間に50.26秒づつ西に動いていったのである。現在は約30度もズレて、12星座と12宮は一星座ズレているのである。
占星術で「白羊宮生まれ」と言えば、それは生まれた日に太陽が白羊宮にあったという意味である。人間にとって、七惑星のうちもっとも影響力の大きいのは太陽であると考えて、生まれた時間に太陽が「白羊宮」にあったために、その人が白羊宮の性質と運命をもっていると解釈をするから星占いなのである。
それを現在では、「牡羊座生れ」といっている。これは、その人が生れたとき、太陽が牡羊座にあったということなのだが、太陽は残念なことにその時すでに牡羊座にはなかったのである。歳差運動のために《春分点》がずれていたからである。
例えば、占星術で一月三日に生れた人は「山羊座」の生れというが、正確には「磨羯(まかつ)宮」の生れといわなければならない。しかもそのとき、太陽は山羊座にはなく、射手座にある。したがって現在の「山羊座生れ」の人はほんとうは「射手座生れ」としなければならないのであるが…
まぁまぁ、堅苦しいことは抜きにして、気楽に楽しみましょう!!
占星術は科学ではないのだから…。