兎のことを一般的にはラビット(Rabbit)。バニーガールのバニー(Bunny)は幼児語でうさちゃんまたは、子ウサギの愛称。2011年の「卯」年生まれの男女は1,008万人、内男性は490万人、女性は517万人。総人口(1億2736万人)に占める割合は7.9パーセントで十二支の中では3番目に少ない。
中国の神話では、月でウサギは不老不死の薬を作っているという。
『月に行った人』
アポロ11号に乗った3人の飛行士が月面に立ったのは、1969年7月20日午後4時17分40秒のことであった。
 7月21日ニール・アームストロングは次のように言った。
That's one small step for (a) man, one giant leap for mankind.
これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。
このとき、ニールは不定冠詞の”a”を省略(one small step for man)してしまった。manはすなわち「人類」の意味になってしまう。
後日、彼は「もし仮に間違っていたとしても、歴史が私の言い間違いを許す寛容さを持ち、人類が一つになる方向に向かって進むことを希望する」と。
2012年8月25日永眠82歳
『月と兎の関係』は‥‥
「兎本生物語」仏教説話によると、一人の老婆が卑しい身なりで、疲れた足取りでとぼとぼと河の淵を歩いていた。空腹のために、いまにも倒れそうであった。そこへ通りかかったのが、獺(かわうそ)と豺(やまいぬ)と猿、そして兎だった。
哀れな老婆を見て動物たちはかわいそうに思って、獺は河に飛び込んで魚を捕ってきた。豺は山に入って蜥蜴(とかげ)を捕え、木の切端をくわえてきた。猿も木々の間を飛び歩いて木の実を携え、河に走って冷水を汲んできた。
兎はハタと考えた。自分は何もしてあげることが出来ない。それでは自らの焼肉で老婆に差し上げようと、木の切端に火をつけ、燃え上がる炎の中に飛び込んだ。その瞬間、老婆はたちまち赤ひげを蓄えた帝釈天に変身した。
帝釈天の法によって火は熱を失い、兎の毛は一本も焼けなかった。帝釈天は兎に徳を讃え、真の慈悲を表わすものとして後世に伝えるため、兎を月にあげたという。
この「兎本生物語」より『今昔物語』に伝えられ、月がロマンと夢を私たちに与え続けている。
 
芭蕉の「名月や池をめぐりて夜もすがら」などにも、ほのぼのとした、月のロマンと美しさが…。
 
月名の十六夜月(いざよい)立待月(たちまち)居待月(いまちし)臥待月(ふしまち)宵待月(よいまち)にもメルヘン的浪漫が…。奥ゆかしさが…。
 
 「中秋の名月」(十五夜)
  2018年 9月24日
お月見は旧暦の8月15日に月を鑑賞する行事(観月とも称する)。ダンゴ、ススキ、サトイモ(中国では月餅)などを供えて月を眺める。
月見行事のルーツは、昔々、中国で月見の日にサトイモを食べたことより、サトイモの収穫祭であったといわれる。その後唐代に宮廷行事となった。日本に入ったのは奈良から平安時代の頃といわれている。(月見ダンゴの形は、以前にはサトイモの形に似せてつくられていた。ススキを飾るのは、ススキには邪気を祓う力や供えたススキを家の軒に吊るしておくと一年間病気をしないという言い伝えが全国に分布している)
 
旧暦8月15日は「十五夜」旧暦9月13日は「十三夜」と呼ぶ。
 
「中秋(仲秋)の名月」秋を三分したなかの秋。秋のまんなか。陰暦8月15日。
雑学 :
ダンゴと言えば平安中期の摂政・太政大臣だった藤原道長がダンゴなどを食べて「この世をば わが世とぞ思う・・・」などとうそぶき、栄耀栄華をきわめたつもりになっていた。摂政関白ですらダンゴくらいだったら、地方長官ともなると、芋ガユくらいでもご馳走だったのでは・・・?いまとは比較にならないほど社会的特権がきわだっていた政府高官ですら、この程度の食事なのだから、一般庶民の食生活など、おして知るべしであろう。中国では現在の中華料理の原型ができあがったのは、八世紀前半の盛唐のころで、玄宗皇帝と楊貴妃のころである。春秋・戦国時代や秦、漢の時代にも、すでに「大牢(たいろう)」という有名な料理があり、牛、豚、羊、鶏を組み合わせたもので、豪華な料理であった。それにくらべると、前記のように当時の日本の食卓は問題にならないくらい貧しかったようである。