「諸行」とは、あらゆる現象の意味であり、「無常」とは、人生のはかなさ、命のはかなさを表わす言葉として使われるが、本来の意味は、万物は生滅流転し、永遠に変わらないものは一つもないということであり、つまり「諸行無常」とは「宇宙に存在するすべてのものが、常に変化して、一刻も同じ状態にとどまることはない」と言うことである。
ギリシアの哲学者ヘラクレイスト(BC500〜600年)も万物は永遠に生成変化する(万物流転)も釈迦の唱える「諸行無常」と同じであり、「人生」や「運命」は諸行無常や万物流転の法則なのでしょうか?
あなたは、「人事を尽くして天命を待つ」(目標に向かって努力するが、その結果は天にまかせる)また、ケ・セラ・セラ(Que Será Será)「なるようになるさ」のどっち派?
それとも、宮本武蔵のように人生や運命を「仏神を尊べど、これに頼まず」の自信過剰派?
私は、12神将に「強運」「幸運」をお願いしたい派。
余談:宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島での決闘の話は有名だよね。武蔵は約束に遅れて行ったことになっているけど、これには12支が関係した深〜いワケがあったのであったー。
武蔵や小次郎の時代に使われていた時間はもちろん12支の時間。「子の刻」とか草木も眠る「丑三つ刻」っていう言葉は、時代劇などでよく使われている。
ところが、12支で表す時間っていうのは漠然としているんだ。例えば「子の刻」っていうのは、午後11時から午前1時までの2時間すべてのことを指すわけ。
こうなると、武蔵と小次郎が「午の刻に、巌流島で会おう」と言ったって、2時間の間のどの時刻に行っても遅刻したことにはならないんだよね。だから武蔵は、遅刻したわけでなくて、ただ2人が約束を念入りにしなかっただけなのさ。それなのに今では、武蔵は遅刻をしていったくせに、決闘はちゃっかり勝っちゃったやつとか「約束の時間に遅れて、人を待たせる名人」とかの代名詞に使われている。これは、正しく不定時制の面白さを如実に示すエピソードでは!
※[出典] 朝日新聞_2009年10月24日
運もいろいろ…
「今日は運が悪い」とか「今日は運が良かった」とかは、ギャンブルなどで多用される言葉である。
「幸運の経験」「ツイている経験」「不運の経験」「出会いの経験」「巡り合せの経験」などから、「運勢」「運命」の現象を経験した人は多いと思う。それらの「運」も先天的に持って生れた「宿命」という運と、好転的に経験する「運命」「運勢」との三要素から成り立っている。
○宿命 : 好むと好まざるとにかかわらず「良い星の下に生れてきた人もいれば、悪い星の下に生れてきた人もいる」が、このように生れながらにして与えられている、性質、気質などが先天的なもので「宿命」の運という。
○運命 : 超自然的な力に支配されて、人の上に訪れる巡り合わせによっておこる、幸、不幸、幸運、不運などの現象。
 
○運勢 : 時間、空間の座標軸において、環境、波動、バイオリズムなどの要因となって構成される運気の流れと考えられる。よって、運勢は自分の考え、行動によって良い方向に流れをつくったり、また努力で変えられる運を言う。
幸運と幸福
人が幸運を求めるのは、幸運と幸福が近しい関係にあるからだろうか?幸運は必ずしも幸福ではなく、幸運を得ながら幸福でない人や幸運とは縁が無くても幸福な人もいる。また不運でありながら、幸福である人もいる。
このように「運」の原理は、不思議な現象であり、運命律ともいうべき法則は、12支占いや九星、また占星術などの類は、その法則を求めたものだろうが、だが、それ以上のものではない。また、運命の法則を説くものとして、宗教、スピリチュアル(「精神の」「霊的な」意)的教義、自己啓発 ・ セミナーなどがあり、これらの中にある運命の法則は、経験から得られたものや、お告げとか悟りの形で観念として得られたものである。
これらの運命法則論も時と場合によって危険が潜む可能性も否定できない。
それは、運命法則が人の行き方を支配し、命令し、脅迫する場合があるからである。
「現世のご利益の神仏」
「運」という自然の摂理は、われわれ人間が自らの意思をもっても叶わぬものであるが、だが、自分の生まれ年に配された干支の守護神仏に願いをかけることによって、ままならぬ自然の「運命」「運勢」の成り行きを守護神仏のご加護によって願いを成就させていただく、まさに他力本願ならぬ「12神将頼み」の言わば、理想的な究極の救済方法があったのだ !
それは干支に配された守護神仏との縁を結ぶことによって、悪運は善運に変わり、新たな後天運(運命・運勢)が形成され、さらに善運はどこまで維持されるという無辺の神仏さまである。せっかく生れたときから、自分の12支があって、その12支で幸運を運んでくれる神仏さまたちがいるんだから、それを利用しない手はないと思うよ !