注釈:寛永寺の寺領は1万790万石。これで徳川800万石が安泰なら、めでたいことだ。
江戸城の鬼門は上野である。三代将軍家光は、天海に命じて「丑寅除け」として、寛永2年(1625年)上野に東叡山寛永寺を建立させた。
西の比叡山に対して東叡山、琵琶湖に対して不忍の池と故事になぞらえたのである。
平将門は天慶2年(940年)敗北したが、将門の怨念は猛気となってただよい、たびたび人々を悩ませたので、徳治2年(1307年)時宗の真教上人は、怨念のため飛んで来たという将門の首塚(東京都千代田区大手町・将門塚)にその霊を祀った。
元和2年(1616年)、徳川家康は江戸の鬼門に当たる湯島に霊場を移したが、二代将軍秀忠は、武州総社として江戸城鎮守としたのが「神田明神」である。
ともあれ、最近は団地、マンション住まいが一般的になりつつあり、あまり方角だの家相だのといわなくなったが、しかし、「鬼門信仰」は平安時代から現代まで引き継がれてきている。
節分はやっぱり「福は内福は内、鬼は外鬼は外、天に花咲き地に実なれ、鬼の目ン玉ぶっつけろー」
節分といえば豆だが、豆は「魔滅(まめ)」に通じ、また、昔京都の鞍馬に鬼がでたとき、毘沙門天のお告げによって豆を鬼の目に投げつけて退治できたという。「魔の目(魔目=まめ)」に通じるということ。
節分の行事は宮中での年中行事であった。この節分の鬼を払う悪魔ばらい行事は、平安時代頃中国から伝わり、鬼払いの儀式「追儺(ついな):弓矢などで悪鬼、厄神などを追い払う行事」から生まれた。
【余談】イワシの頭
「鰯(イワシ)の頭も信心から」などといわれているが、それは節分の日、鰯の頭を柊(ひいらぎ:モクセイ科で鋭い鋸歯がある)の小枝に刺し、戸口に刺すという習慣があった。これは鬼の嫌いな柊のトゲと鰯の悪臭で鬼を退散させようとしたものである。
 悪臭は人間しかり、「邪気」も「鬼」も苦手らしい‥‥。くさやの頭の方が、飛び切り効果があるのに‥‥?
 ≪意味≫『鰯の頭も信心から』
 イワシの頭のつまらないものでも、信仰すれば非常に尊いものに見えることより、信仰心の不思議さをたとえたことわざ。
 新興宗教などに対し、皮肉の意味で使われることが多い。