中国最古の帝といわれる黄帝(BC2448〜2510)が、部下の大撓(だいとう)に命じて「十干」「十二支」を作らせたといわれているが、確かなところでは、殷(BC1046年頃)の時代に使われ、始めは<十日十二辰>のち<十母一二子>という結びつきの強い対語となり、後漢(25〜220年)の頃から、現在の<十干十二支>に定着したといわれている。
確実には、西暦85年の改暦より60周期の干支を1年ごとに機械的に進めていく干支紀年法が用いられるようになり、現在まで絶えることなく続いている。
中国最古の黄帝は、麻の衣服、五穀栽培、住居造り、牛車や馬車、貨幣や度量衡(長さと容積の重さ。それをはかる物差し・枡(ます)秤(はかり))、漢字などもつくったといわれる。漢代に歴史家の司馬遷に著された『史記』によると、姓は公孫、名は軒轅という。帝鴻氏とも呼ばれる。蚩尤(しゅう:中国神話に登場する神)を討って諸侯の人望を集め、伏羲(ふくぎ)のつくった八卦を六十四卦にしたといわれる黄帝と異母兄弟の、神農に代わって帝となったとされる。
 
余談 : 神農とは…古代中国の伝説に登場する帝王。医療と農耕の術を教えたという。世界最古の本草書(漢方医術)「神農本草経(しんのうほんぞうきょう)」に名を残している。日本においては、神農は「神農皇帝」の名称で、フーテンの寅さんでお馴染みのテキヤの守護神として崇敬されている。
ちなみに、天子、国王の称号として英君をあらわす「皇」と「帝」を合わせて命名したのが、秦の始皇帝である。また、始皇帝のつくった大帝国“秦”の名がChinaの語源になっている。