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★天中殺・鬼門とは…

 天中殺』とは…
 十干支は、十干と十二支の組み合わせでつくられた。
当然ながら、十干と十二支をそれぞれ一行に書いて合わせると、十二支のほうが二つ余ってしまう。(A行)
一口でいうと、この余った二つの干支(A行の戌と亥)を『天中殺』といっているのである。

に、その余った十二支のところも埋めながら、また十干を書き十二支もまた繰り返し続けて書いて合わせると、また十二支が二つ余ってしまう。(B行の申と酉)
うして60通りの組み合わせの干支の対応表ができるが、この各行(A〜F行)の余っている十二支の部分がすべて『天中殺』になるというわけである。
例えば、A行の「甲子」から「癸酉」生まれの人の天中殺は『戌と亥』(次の天中殺の年は2019年〜2020年)とされる。
ちなみに、干支には「年の干支」、「月の干支」、「日の干支」があり、天中殺はその人の生まれた「日の干支」をもとにして判断するようである。

中殺はそこにいろいろな解釈を入れて、1979年頃にはたいへんなブームになったようである。
また、『四柱推命』では、その部分を「空亡」といっているが、いずれも内容は同じことである。
天中殺理論では「その(干支の)期間中に新しく事を起こしてはならない」といい、空亡理論では、不調和の時期「その(干支の)方向や年月日は目的を達せず徒労が多い」と主張されているようである。

 中殺の年は、天からのご加護がなくなる運気であるとも言われるので、干支の守護神仏との「縁」をつくることで、よりよい「運気」が天より恵まれ、ご加護を得ることができると言われている。
 の出るところの『鬼門』とは…
 国古代の地理書『仙海経』(せんがいきょう)によると、東海の度朔山(どさくさん)という山の東北の方に大勢の鬼が住み、夜になると門から出て来て人々を悩ましたという。
つまり、鬼の出入りする東北の方向を「鬼門」というようになった。

 が丑寅(東北)に住むということから牛の角をはやし、虎の牙をもち、虎の皮のパンツとなった次第である。
こうして、東北の方向は鬼門として、あらぬ理屈をつけて、忌み嫌われるようになった。
そのため、鬼瓦や桃の木を植えたり、また「丑寅除け」といって家屋敷の東北方向に神仏を祭ったりして鬼の災難を避ける風習が生まれた。

 国において、「鬼門」が東北の方向であるということについては、黄河流域の漢民族にとって東北方面からの異民族の侵入が国家の安泰を妨げていたという事実によっても明らかである。
秦の始皇帝の万里の長城もいわば鬼門固めであったともいえるのでは…。

 武天皇は京都遷都に際し、比叡山が鬼門に当たるため、最澄に命じて、延暦7年(788年)鬼門鎮護の霊場として延暦寺を建立させた。

我が山は花の都の丑寅に鬼入る門を塞ぐとぞ聞く
   と延暦寺の座主慈円(1155〜1225)は、皇居守護の責を長く負っていることを歌っている。

鬼の門 一万石で おつふさぎ
   注釈: 寛永寺の寺領は1万790万石。これで徳川800万石が安泰なら、めでたいことだ。
 戸城の鬼門は上野である。三代将軍家光は、天海に命じて「丑寅除け」として、寛永2年(1625年)上野に東叡山寛永寺を建立させた。
西の比叡山に対して東叡山、琵琶湖に対して不忍の池と故事になぞらえたのである。

 将門は天慶2年(940年)敗北したが、将門の怨念は猛気となってただよい、たびたび人々を悩ませたので、徳治2年時宗の真教上人は、怨念のため飛んで来たという将門の首塚(東京都千代田区大手町・将門塚)にその霊を祀った。
元和2年(1616年)、徳川家康は江戸の鬼門に当たる湯島に霊場を移したが、二代将軍秀忠が武州総社として江戸城鎮守をしたのが「神田明神」である。
ともあれ、最近は団地、マンション住まいが一般的になりつつあり、あまり方角だの家相だのといわなくなったが、しかし、「鬼門信仰」は平安時代から現代まで引き継がれてきている。


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