中国において、「鬼門」が東北の方向であるということについては、黄河流域の漢民族にとって東北方面からの異民族の侵入が国家の安泰を妨げていたという事実によっても明らかである。
秦の始皇帝の万里の長城もいわば鬼門固めであったともいえるのでは…。
桓武天皇は京都遷都に際し、比叡山が鬼門に当たるため、最澄に命じて、延暦7年(788年)鬼門鎮護の霊場として延暦寺を建立させた。
と延暦寺の座主慈円(1155〜1225)は、皇居守護の責を長く負っていることを歌っている。
注釈: 寛永寺の寺領は1万790万石。これで徳川800万石が安泰なら、めでたいことだ。
江戸城の鬼門は上野である。三代将軍家光は、天海に命じて「丑寅除け」として、寛永2年(1625年)上野に東叡山寛永寺を建立させた。
西の比叡山に対して東叡山、琵琶湖に対して不忍の池と故事になぞらえたのである。
平将門は天慶2年(940年)敗北したが、将門の怨念は猛気となってただよい、たびたび人々を悩ませたので、徳治2年時宗の真教上人は、怨念のため飛んで来たという将門の首塚(東京都千代田区大手町・将門塚)にその霊を祀った。
元和2年(1616年)、徳川家康は江戸の鬼門に当たる湯島に霊場を移したが、二代将軍秀忠が武州総社として江戸城鎮守をしたのが「神田明神」である。
ともあれ、最近は団地、マンション住まいが一般的になりつつあり、あまり方角だの家相だのといわなくなったが、しかし、「鬼門信仰」は平安時代から現代まで引き継がれてきている。