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★日本人の三蔵法師

三蔵法師と西遊記
 の「三蔵法師」っていうのは人の名前じゃないってこと知ってる?「三蔵」というのは、僧侶たちに与えられる最高の位とでも言うべきもので、三蔵(経蔵、律蔵、論蔵)に収められた4,000冊を超える一切経を理解した僧でなくちゃもらえないんだ。だから三蔵法師っていうのは、「超スペシャルなお坊さん」ってことかな。
 本にも、たった一人だけ三蔵の位をもらった人がいました!。その名も霊仙(りょうせん)三蔵。この霊仙さん、日本の「神風」とヒジョーに深い関係があるおかたなのである。
 から1250年前、現在の滋賀県に生まれた霊仙は、小さいころから仏の道に通じていて、4才にして仏の道に入り、15才で出家し、18才で僧侶になっちゃったという超エリート。
 時、仏門に入った者にとって、中国で修行するというのは究極の夢。霊仙は、その夢がかない45才のとき、日本仏教の発展になくてはならない二大重要人物、最、空海とともに遣唐使として中国に渡った。
 の中は仏教のことしかないってぐらいマジメ人間だった霊仙は、中国は長安に着くと、いろんな知識を次々と吸収して猛勉強。とうとう、中国にいるお坊さんたちより仏教に詳しくなっちゃった。それで、梵夾(ぼんきょう・木の葉につづった梵語のお経)の訳経に霊仙が登用されたのである。霊仙はみごとにその大役を、わずか8ヵ月の超スピードで完成したのであった。
「こいつは日本人のくせに、恐ろしいほどすぐれているぞ」
ってことで、当時の中国の憲宗皇帝から、日本人初の「三蔵」の位をもらったのであった。
時に霊仙三蔵52歳、入唐から7年目の夏であった。

 仙さんが61才のときに、中国では反仏教派の反乱が起きて、長安に居られなくなった彼は、五台山へと逃げることとなった
以来、五台山が、霊仙の生活の場、修行の場となったんだ。
霊仙も821年、大華厳寺前(現顕通寺)の亭において遠くの山々に一万菩薩が々と出現するのを見たという。また、干支の守護神仏もきっと見たにちがいない。

 台山では、地元の人たちにも、
「気どりがない、いいお坊さんだ」
と親われていたみたいだけど、こと修行に関しては徹底して厳しい人だったようで、こんなエピソードがある。


霊仙三蔵
 金の光をまばゆいばかりに放っていた金閣寺(770年、不空三蔵により創建)で、密教の修業に打ち込んでいた霊仙はある日、自分の手の皮に仏像を描きそれを聖地・五台山に捧げよう、と弟子に、
「私の手の皮を切りなさい」
と命じた。
「おっしょさん、私にはとてもそんなことはできません」
と弟子がしりごみしていると、自分でナイフを手にするやいなやスパッ!スパッ!と自らの手の甲に切れ目を入れ、勢いよくその皮をはぎ取ったんだって。


金閣寺
の17年後、五台山に入山した慈覚大師円仁は「入唐求法巡礼行記」に霊仙の手皮仏を見たと記している。
こんなすごいことを涼しい顔でできちゃう霊仙さんって、やっぱりタダものじゃないぜ。

 て、どうして霊仙が「神風」と深い関係があるかっていうと、その秘密は彼が、
「なんとしてでも、これは日本に持ち帰らなければ!」
と思うほど入れ込んだ密教の秘法中の秘法と言われる「太元帥法(だいげんすいほう)」にある。
誰が決めたのか世界の三大美女の一人、楊貴妃の頃、安禄山の反乱によって唐が滅亡の危機にさらされたが、それを救ったのが太元帥法の秘法であった。


安禄山
康国(サルマカンド:中央アジア、ウズベキスタンの古都)出身のソグド人(ペルシア系)と突厥系(トルコ系)の混血。六ヶ国語に堪能な太鼓腹をした巨漢(200Kg)
  742年年節度使となり、その後、玄宗皇帝と楊貴妃に取り入り、三つの州の節度使を兼任。
  755年11月9日反乱を起こし、洛陽を陥落させ、756年聖武皇帝を自称し、国号を燕とした。
  (同時期の日本では、官職名を唐風に変更しようとした。聖武天皇の諡(おくりな)を皇帝にした場合、反乱軍の総帥と同じ諡にするのは、いかがなものかとの声が上がり、沙汰止めとなったといわれる。ただし聖武天皇は756年6月4日崩御)
  それから1年後安禄山は、息子の安慶緒に殺害される。安慶緒もまた、759年史思明(安禄山の配下)に殺害される。史思明もまた、761年実子の史朝義によって殺された。まさしく「因果応報」だ!


余談:中国の皇帝の妻は、整然たる官僚制の中に位置づけられている。その人数は、すこぶる多く唐代では、皇后がいて、その下に妃が4人いる。上から貴妃、淑妃、徳妃、賢妃。続いて九嬪(ひん)という身分の9人。上から昭儀、昭容、昭媛(しょうえん)、脩儀(しゅうぎ)、脩容(しゅうよう)、脩媛(しゅうえん)、充儀、充容、充媛。次に婕茵覆靴腓Δ茵法美人、才人がそれぞれ9人づつで計27人。最後が宝林、御女(ぎょじょ)、采女(さいじょ)。これは27人づつで81人。合計するとなんと122人となる。この全員が正式な妻である。則天武后は唐の高宗に見そめられたとき、最初に才人として入った。その後たちまちのうちに昭儀に上がり、さらに皇后から皇帝にまでなってしまった。
 則天武后は「中国三大悪女」の一人である。あとの二人は呂雉(りょち:紀元前180年 漢の高祖劉邦の皇后、呂后、呂太后、呂妃とも呼ばれる。)と清代の西太后。


 元帥法は、国を挙げて戦いのとき、襲って来る敵軍をことごとくやっつけてしまうことができるというもので、つまり、この経典が「神風」を生む大法なんだ。神風というと、日本の神道から来ているように思われがちだけど、実は、仏教から来たものなんだよ。
 元帥法の名を高めたのは、平将門の乱(940年)のときだ。勅命によって将門を調伏(じょうぶく)するため、太元帥法が修法された。
また、鎌倉時代、蒙古からの襲撃を受けたとき、神風が吹いて大軍を撃退したってことは、教科書でも習ったでしょう。これは、「太元帥」が、国家の秘法として用いられていたからなんだ。

 ころが、実際に日本に太元帥法を伝えたのは、霊仙じゃないんだ。霊仙は、なんとかしてこの経典を持ち帰りたいと思っていたのにもかかわらず、68才のときナゾの毒殺で命を落としているんだ。だから後に、常暁(じょうぎょう)というお坊さんが中国に渡った際、霊仙の弟子から、その遺言と遺品の法具を譲り受け、それを日本へと持ち帰ったわけ。

大元帥明王
大元帥明王
  その姿は京都・醍醐寺本にみられる一八面三六臂・六面八臂・一面四臂像、高野山西南院本にみられる三面八臂像などさまざまに描かれているが、いずれも非常に恐ろしい形相で蛇を体に巻き付け、邪鬼を踏みつけるなど、一度見たら忘れられない姿をしている。


 尊は、明王の総帥ということから太元帥明王と意訳された。仏は大日如来を始めとして、釈迦、観音などあらゆる仏と菩薩の集合体であるとされるが、天をつく怒髪に、すさまじい憤怒の形相で、燃え盛る炎の前に立ちはだかり、古来この世で一番恐ろしい仏神だとされている。
常暁は、井戸に映し出された「太元帥明王」のその姿の恐ろしさに思わず気絶したという。

 悟空をお供にして旅をした三蔵法師は有名だけど、日本に神風を吹かせる経典を伝えようとした日本人の霊仙三蔵法師のことはあまり知られていない。

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