多くの仏さまたちがインドの出身と言われているが、この文殊菩薩さまは中国山西省五台山の出身。五台山の菩薩頂に住み、一門の菩薩一万人とともに、説法を講じていると経典の中でも明言しているのだ。
日本の仏教のルーツともいわれ、「三蔵法師になった日本人の霊仙(りょうせん)三蔵」、慈覚大師円仁(えんにん)、宗叡(しゅうえい)、然(ちょうねん)、成尋(じょうじん)などの各高僧が仏法を求めて入山している。
円仁の『入唐求法巡礼行記』(旅行記としてはマルコポーロの『東方見聞録』を上回ると評されるほど、事実を正確に記録している)によると、五台の山を遠望したときの感激を「地に伏して遥かに礼し、覚えず涙をふらす」と、神々しいばかりにそのようすをつづっている。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(仏の御光・御来迎)などの奇瑞を多数目撃したとする記述や、文殊菩薩に関する数々の霊験や高僧の奇瑞などが記されている。
五台山仏教は、彼ら日本人留学僧によって日本に伝えられ、今日の教えに浸透し、根強く生きている。
比叡山延暦寺の三代座主。
 838年短期留学僧の遣唐使として入唐する。9年半にわたる旅行記『入唐求法巡礼行記』を書き残す。
 「入唐求法巡礼行記」は玄奘(げんじょう)三蔵のインド旅行記である「大唐西域記」(646年成立)やマルコポーロの「東方見聞録」(マルコポーロの旅行記。日本を黄金の国ジパングとしてヨーロッパに紹介。1299年完成)とともに、三大旅行記として高く評価されている。
平安中期、天台宗の僧。1072年、北宋に渡り、天台山や五台山を巡礼後、中国に残った。その旅行記に『参天台五台山記』8巻がある。
唐代には、300を越す寺院が建立されたが、現在は76寺、5638間の殿堂楼閣があり、そのうち、63寺にある仏像は大小合わせて34108体とされている。
五台山の金閣寺、仏光寺、竹林寺、吉祥寺などの銘は、日本の寺と同名で、京都嵯峨野の釈迦堂には五台山清涼寺の額が掲げられている。
周囲250キロ、3000メートル級の山が環状に並んでいる。土の台を築いたようになっているので、五台山と名付けられた。
京都嵯峨野の釈迦堂で知られる清涼寺は山号を五台山と称する。
東大寺の僧然(ちょうねん)が京都の愛宕山を五台山に見立て、山麓の地に清涼寺を建立しようとしたが、その願いを達しないまま、1016年然は没した。彼の意思を継いだ弟子の盛算(じょうさん)が五台山清涼寺を建立した。