「握力の強い人」っていうのは、自分のほしいと思うものはなんでも手に入れて、一度つかんだものは絶対に離さない、っていう意味もあるらしいけど‥‥?
反対に、どんなに努力しても叶わない人生を歩む人もいる。ちなみに「握力のない人」である。
「握力の強い人」「握力のない人」この2人の「巡り合わせ」を分けるものはいったいなんでしょうか?
 それは、生命(宿命)という現実を循環という時(運命)が大きな影響をあたえているからなのではないだろうか?
占星術が「宿命」や「運命」を感知し、指針が与えられ行動をしたとしても、その結果に決して満足しない場合も多いはずである。つまり、占星術が救済手段となりえないとすれば、究極の救済手段を何に求めたらいいか、ここで干支の十二神将が重要視されたのであった。すなわち、自然の摂理は、われわれ人間が自らの意思をもっても叶わぬものであるならば、自分の生まれ年に配された干支の神仏に願いをかけることによって、ままならぬ自然の成り行きを守護神仏の御加護(『薬師経』は致福消災)によって大願を成就させていただく、まさに理想的究極の救済方法が、古く中国仏教の中に成立したのだった。日本には、飛鳥時代の頃、中国より薬師如来仏が伝来すると、薬師信仰が盛んとなり、聖徳太子は用明天皇の病気平癒のため薬師如来像を造立し、天武天皇は680年、皇后(後の持統天皇)の病気平癒のため薬師寺建立を発願したのであった。
天武天皇も薬師の力を「強く」信じ、「強く」という、もう一つのアクション(薬師寺建立)によって幸運を呼び寄せたと思う。
(霊験があって、皇后が回復したという記録が日本書記にある)
また、12神将も薬師如来の眷属(または分身)として、多くの人々より、信仰を集め、燦然と光を放ってきたのであった。生きている限り、豊かな人生を送りたいとする願いは、何人も、今も昔も当然のことである。
幸せをつかむための「握力」はいくら強くたっていいと思う。ただ漠然と「幸せになりたいなぁ、幸せになれるかなぁ」って思ったって、幸せなんかになれないよ。こういう人は、きっと一生幸せになりたいわぁと言い続けて人生終わるよ!本気で幸せになりたいなら、自分にとって幸せとはどういうことなのかを自覚して、どんな方法でも「強く」アクションを起こさなきゃ。
神や仏への超自然の「祈り」というのは、その最たる現れであり、干支に配された十二神将に礼拝を深めるならば、時間、空間を越えた目に見えないところに神将は現れ、「開運・招福」の道は実証されるでしょう。
また、積極的な思考を潜在意識に植えつけ、強く信じていれば、「幸運」はおのずと呼び込まれ、自分自身の運命は大きく変化し、夢も叶うんじゃないかな!