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願いを‥‥
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★厄年・天中殺・暗殺剣・五黄殺・殺界・鬼門とは…

年』とは…
 代中国の讖緯(しんい)説(「讖」とは、予言を意味し、また「緯」とは禍福とか吉凶などの予言を記した書物)や陰陽道説に起源があるとされる。
氏物語」には、藤壺とヒロインの紫の上が当時の厄年といわれる37歳にあたり、厄払いをする様子が描かれている。
 江戸時代には、厄の風習が民間に定着すると神社仏閣で厄払いをするのが流行したという。

 成7年度の調査によると、女性の離婚率が最も高いのが厄年にあたる31〜33歳。やはりサンザン(大厄33歳)ですね ! 男性の厄年42歳前後で、大腸ガン、咽喉ガンの発生率が非常に高くなっているが、なんとイヤな語呂(死に)ですね ! この語呂合わせ説は、偶然の一致なのだろうか?

厄払護符
 年の意識調査において、多くの人が「厄年を真剣に信じていたわけではないが、とりあえず、嫌な事が起こると困るので…」と、厄払いをした人が7割以上に上がっている。
 「厄年のときに何か悪いことが起こりましたか?」との問いに、災難が降りかかったと自覚した人が54パーセント。偶然かも知れないが、YESと答えた人の7割が、厄払いをしなかった人であったという、何と恐ろしい結果となった。「Domani参考」






中殺』とは…
 十干支は、十干と十二支の組み合わせでつくられた。
当然ながら、十干と十二支をそれぞれ一行に書いて合わせると、十二支のほうが二つ余ってしまう。(A行)
一口でいうと、この余った二つの干支(A行の戌と亥)を『天中殺』といっているのである。

 に、その余った十二支のところも埋めながら、また十干を書き十二支もまた繰り返し続けて書いて合わせると、また十二支が二つ余ってしまう。(B行の申と酉)
  こうして60通りの組み合わせの干支の対応表ができるが、この各行(A〜F行)の余っている十二支の部分がすべて『天中殺』になるというわけである。
例えば、A行の「甲子」から「癸酉」生まれの人の天中殺は『戌と亥』(次の天中殺の年は2019年〜2020年)とされる。
ちなみに、干支には「年の干支」、「月の干支」、「日の干支」があり、天中殺はその人の生まれた「日の干支」をもとにして判断するようである。

 中殺はそこにいろいろな解釈を入れて、1979年頃にはたいへんなブームになったようである。
また、『四柱推命』では、その部分を「空亡」といっているが、いずれも内容は同じことである。
天中殺理論では「その(干支の)期間中に新しく事を起こしてはならない」といい、空亡理論では、不調和の時期「その(干支の)方向や年月日は目的を達せず徒労が多い」と主張されているようである。
  


星はなんでも知っている〜
 から200億年という、気の遠くなるような大昔に宇宙誕生のビック・バンが起きた。
その後15億年たって銀河が形成され、26億年たって星が誕生した。さらに50億年前に太陽が誕生し、45億年前に地球ができたという。


星はなんでも知っている〜
 がて人類が誕生し、約4千年前のカルデア人は星を仰ぎながら時刻を知り、星の位置から季節の変化が読み取れることを知るようになった。
しかも、季節ごとに秩序をもって変る天空の動きのなかで、五つの星は、まわりの星の隊形とは無関係に動いていることを発見したのだった!
それは、惑う星≪惑星≫(プラネット)と名づけられた。現在の水星、金星、火星、木星、土星である。
人間は生まれてから、死ぬまで、さらに生きている一瞬一瞬までが、これら惑星の位置の組み合わせで決定されるという≪誕生占星術≫(ゲネトリアロギ・Genethlialogia)が生まれた。こうして、カルデァ人によって生まれた占星術は、ギリシャに伝わり、ヨーロッパ中世にはホロスコープ占星術となって宗教色も加わり大いに発展して、現在でも私たちを楽しませたり、悩ませたりの一喜一憂を与えている。

 は同じく、古代中国でも五惑星の位置や運行によって、すべての現象が決められると考えられていた。


洛書と九星
の禹王が亀の甲に書かれた紋様<洛書>にヒントを得て、五行説をとなえたが、この洛書がもう一つ別の理論を生み出したとされる。紋様の数を正方形に並べてみると縦、横、斜めの和が15になったことより古代の人々の目には、まさしく神秘と映ったのであった。(数学で解き明かされている魔法陣[正式には魔方陣]である)
つまり、古代の中国では、洛書の数が天命を語り、神のご意志が洛書のなかにあると考え、この九つの配置を≪九星≫と名づけ、九星が神意を語るとしたのであった。

星術』とは‥‥?
 の九星による占星術を九星術というが、九星術の考え方を説明すると、干支が年月日で移るように、九星も年月日によって刻々と位置をかえ、移動すると考えられたのであった。この九つの星が一定の順序にしたがって遁甲(とんこう・天文現象)していくので、生まれたときの星が現在どのような星周りにあるかを占うのである。
よって、九星は洛書からのヒントである九つの数、五行配当、さらに七つの色が加えられ次のように名づけられた。

白水星
黒土星
碧木星
緑木星
黄土星
白金星
赤金星
白土星
紫火星
さらに≪十干≫≪十二支≫≪八卦≫まで組み合わされたため、複雑で神秘的な姿となった。

 洋、西洋を問わず、星はつねに天の意志であり「よい星のもとに生まれたい」とする運命の希望が星をめぐるロマンであるといえるのでは…。

殺剣』
 星術にも凶方位として≪暗殺剣≫とか≪五黄殺≫というのがある。
≪暗殺剣≫とは、暗闇から剣が急にとびだしてくるような方位のことで、その方位を犯せば、偶発的に、また他発的に急速に障害がおこり、目的を達しないで悪い結果がおこるというのである。
≪暗殺剣≫には「方位」と「時期」がある。

黄殺』
 星術で≪五黄殺≫というのは、「五黄土星」がある方位をいい、その方位を犯せば、五黄土星の悪化作用をうけて、慢性的に、また自発的におだやかな障害がおこり、目的を達することができず、悪い結果に終るというのである。
この五黄殺にも、「方位」と「時期」がある。≪五黄殺≫の方位とは、九星図において「五黄土星」の位置している方角のことである。

星占術』
 星占術もまた、大殺界(陰影・停止・減退)中殺界(乱気)小殺界(健弱)などと、空亡的理論を構成している。占いの非科学性と神秘性、信じるというより心情の世界での観念であるのでは…!
 中殺の年は、天からのご加護がなくなる運気であるとも言われるので、干支の守護神仏との「縁」をつくることで、よりよい「運気」が天より恵まれ、ご加護を得ることができると言われている。

 の出るところの『鬼門』とは…

 国古代の地理書『仙海経』(せんがいきょう:中国古代の地理書。神話・伝説などを記す。日本には9世紀末に伝来)によると、東海の度朔山(どさくさん)という山の東北の方に大勢の鬼が住み、夜になると門から出て来て人々を悩ましたという。
つまり、鬼の出入りする東北の方向を「鬼門」というようになった。


鬼門の方角
 が丑寅(東北)に住むということから牛の角をはやし、虎の牙をもち、虎の皮のパンツとなった次第である。
こうして、東北の方向は鬼門として、あらぬ理屈をつけて、忌み嫌われるようになった。
そのため、鬼瓦や桃の木を植えたり、また「丑寅除け」といって家屋敷の東北方向に神仏を祭ったりして鬼の災難を避ける風習が生まれた。

 国において、「鬼門」が東北の方向であるということについては、黄河流域の漢民族にとって、東北方面からの異民族の侵入が、国家の安泰を妨げていたという事実によっても明らかである。
また秦の始皇帝の、万里の長城もいわば鬼門固めであったともいえるのでは…。


退治‥‥桃太郎
 話の形成は、『山海経』からと考えられる。<桃>から生まれた桃太郎が二つに割った桃のなかから生まれてくるというのも、<兆>(きざ)しが裂け目を意味する<卜占>(ぼくせん)に由来するという。
  日本での鬼は佐渡の金北山(きんぽくさん)にいると考えられたこともあるらしい。それは、前記の鬼の住む度朔山(どさくさん)が佐渡の逆さ言葉(さど→どさ)や罪人が佐渡送りを恐れたことに関連があるとされる。
  (鬼ケ島の伝承地やゆかりの地とされる場所は全国にある。
  その中でも岡山県は「黍団子」「吉備団子」をリンクさせるなどし、宣伝活動からゆかりの地として有名になった、岡山県総社市、鬼ノ城。香川県高松市、女木島。愛知県犬山市桃太郎神社。桃太郎のモデルとなった吉備津彦命(きびつひこのみこと)本来の名、彦五十挟芹彦命(ひこさせりびこのみこと)の故郷、奈良県磯城郡田原本町など。)

 国の『山海経』では、鬼が悪行を重ねるため、天帝は神茶(しんと)、鬱塁(うつるい)という二神をつかわして、門を出入りする鬼どもを監視させ、悪行を重ねる鬼を捕えて、葦(あし)の縄でしばり、桃の木でつくった弓で殺し、虎にあたえて餌にしたという。人食った話ではなく、虎が鬼食った話でした…。
 武天皇は京都遷都に際し、比叡山が鬼門に当たるため、最澄に命じて、延暦7年(788年)鬼門鎮護の霊場として延暦寺を建立させた。

我が山は花の都の丑寅に鬼入る門を塞ぐとぞ聞く
 釈:延暦寺の座主慈円(1155〜1225)は、皇居守護の責を長く負っていることを歌っている。

鬼の門 一万石で おつふさぎ
 釈:寛永寺の寺領は1万790万石。これで徳川800万石が安泰なら、めでたいことだ。
 戸城の鬼門は上野である。三代将軍家光は、天海に命じて「丑寅除け」として、寛永2年(1625年)上野に東叡山寛永寺を建立させた。
西の比叡山に対して東叡山、琵琶湖に対して不忍の池と故事になぞらえたのである。


平将門
 将門は天慶2年(940年)敗北したが、将門の怨念は猛気となってただよい、たびたび人々を悩ませたので、徳治2年(1307年)時宗の真教上人は、怨念のため飛んで来たという将門の首塚(東京都千代田区大手町・将門塚)にその霊を祀った。
元和2年(1616年)、徳川家康は江戸の鬼門に当たる湯島に霊場を移したが、二代将軍秀忠は、武州総社として江戸城鎮守としたのが「神田明神」である。
ともあれ、最近は団地、マンション住まいが一般的になりつつあり、あまり方角だの家相だのといわなくなったが、しかし、「鬼門信仰」は平安時代から現代まで引き継がれてきている。


節分豆まき
 分はやっぱり「福は内福は内、鬼は外鬼は外、天に花咲き地に実なれ、鬼の目ン玉ぶっつけろー」
節分といえば豆だが、豆は「魔滅(まめ)」に通じ、また、昔京都の鞍馬に鬼がでたとき、毘沙門天のお告げによって豆を鬼の目に投げつけて退治できたという。「魔の目(魔目=まめ)」に通じるということ。
節分の行事は宮中での年中行事であった。この節分の鬼を払う悪魔ばらい行事は、平安時代頃中国から伝わり、鬼払いの儀式「追儺(ついな):弓矢などで悪鬼、厄神などを追い払う行事」から生まれた。
【余談】イワシの頭

(イワシ)の頭も信心から」などといわれているが、それは節分の日、鰯の頭を柊(ひいらぎ:モクセイ科で鋭い鋸歯がある)の小枝に刺し、戸口に刺すという習慣があった。これは鬼の嫌いな柊のトゲと鰯の悪臭で鬼を退散させようとしたものである。
  悪臭は人間しかり、「邪気」も「鬼」も苦手らしい‥‥。くさやの頭の方が、飛び切り効果があるのに‥‥?
  ≪意味≫『鰯の頭も信心から』
  イワシの頭のつまらないものでも、信仰すれば非常に尊いものに見えることより、信仰心の不思議さをたとえたことわざ。
  新興宗教などに対し、皮肉の意味で使われることが多い。


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